恐らく物書きなら誰でも知っているだろう。
国内の出版社の中で最も厳格な校閲をすると評価されて来た出版社はどこか。他でもない新潮社だ。以前は、筑摩書房の校閲も定評があった。でも一度、倒産して再建する時に、校閲部を廃止して外部に任せるようになったとか。今は又、同社の校閲部が復活したのかどうか。それは知らない。だが、今のところ筑摩書房の校閲を特に評価する声は聞かない(私自身も、ちくま新書から1冊出しているので失礼ながら)。私も以前、新潮社の雑誌から依頼を受けて、原稿を寄せていた時期がある。私の担当の編集者はO氏。ダンディーで有能だった。私は例によって手書きの原稿。それを他の雑誌のようにファックスで編集部に送る事はなかった。必ず喫茶店かどこかで落ち合って、手渡し。彼は早速、私の目の前でそれを熟読して、その場で忌憚の無い感想を述べる。その感想に従って、書き直しを余儀なくされる事もしばしば。文末の記述を冒頭に据え直す。或いは、ある部分をより掘り下げて、別の部分はバッサリ切り捨てるなど。大正天皇を巡る一文の時などは、こんな言い方。「素晴らしいお原稿です。これまでウチの雑誌に戴いた中でも、最も読み応えがあります。だからどうでしょう、これだけの素材をもっと活かす為に、全面的に書き直して戴く、というのは」。かくて仕上げたのが(後に『天皇からよみ解く日本』に収めた)「大正天皇の詩と真実」。よく締め切りに間に合ったものだ。校了後は、美味しい鮨屋とか、生演奏をバックにダンサーが踊っている店などで、歓談しながら美酒に酔う。その時の話題によっては、それがそのまま次の執筆に繋がる。私がそれまで知っていた、保守系雑誌の編集者との付き合い方とは、やや違う流儀に触れた。しかし、一番印象に残ったのは、やはり校閲の厳しさだ。初めて校閲の筆が入ったゲラ刷りを受け取る時に、O氏は言った。「校閲による疑問箇所の指摘が多くても驚かないで下さい。他の先生方(執筆者)はもっと多いですから」と。確かに指摘箇所がドッサリ。不審な箇所に鉛筆で几帳面に傍線が引いてあり、「?」印を付け、全てについて疑問の根拠となる資料のコピーが添付してある。同社の校閲部では、編集部から回って来た1本の原稿を、3人でチームを組んで校閲するそうだ(当時は。今は知らない)。まず各自が疑問点を列挙した後に、お互いにそれを潰し合って、最後まで残った疑問だけを執筆者に返す。私がある遺跡について、最も学術的な正確さを期待できる正式な報告書に基づいて書いた箇所にも、しっかり傍線が。何故?と不思議に思ったら、その報告書が刊行された後に、地名の変更が行われていた。他にも舌を巻く思いをした事が何度もある。さすが噂に違(たが)わぬ新潮社の見事な校閲ぶり。その頃、O氏はいつも自慢していた。「わが社の信頼がもし保たれているとしたら、それは編集者の手柄ではなありません。専ら校閲部の堅実な仕事のお蔭です」「校閲部は我々社員一同の誇りです」と。校閲部の皆さんも、新潮社のブランドを守る“最後の砦”は自分たちだという矜持を持って、仕事をされていたに違いない。但し、校閲という作業には限界がある。執筆者が、校閲による指摘を頑として受け入れなければ、明白な誤字などを除き、訂正を強制できない。それがルール。だから、いつでも消せるように鉛筆書き。校閲者は、その限界ゆえに、歯噛みするような悔しい場面も、或いは経験されているかも知れない。しかし、書き手に公的な責任感とプライドがあれば、きちんとした根拠を伴う指摘には、謙虚に従うのが普通ではないか。なお、私が書いていたのは
『新潮45』という雑誌だった。